メルセデスはぼくに微笑まない
誰かにとって、それはきっと酷く重いものであって、それでいて空気みたいに軽いものでもある。その認識の違いは人それぞれだから、大きいと思う人もいれば小さいと思う人もいるし、美しいと思う人もいれば醜いと思う人もいると正守は思うのだ。
「こんなの、母さんが見たら何て言うんだろうな」
誰が見ても目をひん剥いて仰天するであろうことは明確である、なんてことは言わない、というよりそんなことを言う余裕は今の良守には皆無だった。正守のいいように開発された身体は欲望に忠実過ぎる。
「う、ぁ、」
全身が針で撫でられているようにピリピリと痺れていた。頭の天辺から足の指先まで、1ミクロンの隙間も無いほど全身に電流が流れるような感覚が、良守の神経をも焼き切る。
「自分の腹から生まれた二人の子供が、こんなことしててさ、」
母親の胎内にいた頃、間違いなく自分は母と肉体的に繋がっていた。母の身体を巡った血液が良守に送られてきて、全身を循環した後、母の身体へ還っていく。美しい親子の生命サイクル。そこには無駄なものなんて欠片もなくて、ただただ無償の美しさだけがある。
俺と母さんは一本の管を通して、確かに繋がっていた、のに。(今の僕を繋ぐものは、何だって言うのだ!)
それが今は、良守がこの世に生まれ落ちる前に繋がっていた愛惜しい母と、生まれる以前に自分と全く同じ形で繋がっていた憎い兄と、母と同じように一本の管で繋がっている。
ドクドクと脈打つ心臓から流れる液体が、良守の全身を駆け巡ってから管を通って正守の中に流れていくような感覚を憶えて、良守は嗚咽を漏らした。母がどう思うか、なんてそんな。(残酷なこと考えさせないでくれ、頼むから、)
「ぁ、あァ、!」
ガクガクと揺さぶられる思考の中で考えるのは、母の子宮にいる時の自分のことばかりだった。そしてその自分を外側から見つめる兄を想像して、正確には、期待と母親を奪われた嫉妬からくる熱い視線を想像して、良守の中がきゅうと締まる。その急激な収縮運動に、正守が小さな声を漏らして液体を送り込んだ。歓喜と嫌悪で、良守も解放を促され
る。
「知らない方が幸せなことってあるよなぁ。」
少し上がっていた息も早々に整え、正守は良守の耳の鼓膜を犯す。肩で息をしていた良守は、直接脳を震わす声に、ぼんやりとしていた思考を必死で傾けたが、その言葉の意味は半分ほどしか理解できなかった。
“背徳”という言葉がある。今の正守と良守の関係を表すには少し弱い気もしたが、正守はこの言葉を気に入っている。「道徳に背く」なんて甘美な響きだろう、と酔い痴れる。
自分たちは仏の道に背き、世界を裏切った共犯者だ。共犯者という唯一無二の存在は、母子の血の繋がりよりずっと濃い、と正守は思うのだ。黙っていてもそこには切れない鎖が存在し、裏切りを重ね一方から離れると、そこには憎しみの鎖ができる。つまり二人は一生離れることはできないのだ。(俺はそれを望んでいる、たとえお前が望んでいなくと
も、俺は、)
この鎖を誰かは汚いと罵るだろう。けれど正守にはそれがプラチナでや金でできた鎖より美しく思えてならないのだ。
(07/05/06)