scars'
俺は学校が嫌いだ。というか、烏森が嫌いだ。
その理由は至極簡単だ。その名前を聞くと思い出してしまうから、自分と兄の間にある越えられない壁を。埋めることのできない溝を。だからその現実を思い起こさせる学校が嫌いだ。夜間はもちろん、昼間の賑やかな姿だって好きじゃない。
こんな場所、なくなってしまえばいいのに、と何度も思った。そしてその度、現実を突きつけられたような惨めな気分になった。
こんな方印があるから。
そんなことを考えながら、ぼんやりと手のひらを眺める。爪が食い込むほど強く握り締めると、細い傷跡ができた。そこから生命線を通って流れ落ちる血。それは手首を伝って、着ていた制服の白を赤に変えていく。
(こんな痛みじゃ、ないんだろうなぁ)
兄が持つ痛みは。
昔、俺が馬鹿みたいに幼かった頃。俺は兄をこれ以上ない酷い方法で傷つけた。
その頃はあの方印の意味なんてわかってなくて、兄にそれを見せては、取ってくれ、と泣いた。いらないんだ、と泣いた。あの方印があるから、兄は自分にだけ優しくないんだと思っていたから。ただ、兄に優しくされたかった。色の無い目で笑いかけてほしくなかった。
兄は方印をじっと見つめたあと、俺を見た。困ったような顔の中に、俺は初めて兄の目の色を認識した。それは、静かに哀しみの色を湛えていた。
きっと兄は俺を殺したくなるほど憎んだだろう。でも俺があまりに馬鹿で、悪いことをしたなんて微塵も思ってなかったから、だから困ったように笑うしかなかったんだ。
あれ以降、俺は兄の目に色を見ていない。
「良守」
背後から聴こえた静かな声に歩を止める。勢いよく振り返れば、そこには紛れもなく兄が立っていた。
「兄、貴…」
仕事着ではなく、普段着るような和服姿。これからどこへ行くのかは明白だった。
「家、帰ってくるのか、」
「ちょっとおじいさんに話があってね」
詳しくは言えないんだけど。と付け足すと、ゆっくり歩を進め、良守の隣に並ぶ。そのまま「行こうか」と言った。俺はその”行く”という表現があまりにも普通に出過ぎて、涙が出そうになった。兄の帰る場所はあの家でないんだ、と改めて言われたようだった。
「お前、相変わらず背伸びないね」
笑われたのだとはわかったけれど、怒る気にもなれなかった。俯いた顔を上げることもなく、半歩前にある兄の背中を追いかける。
俺は、兄貴に帰ってきてほしいのか?そう自問したところで答えはわからない。兄を傷つけたあの日から、自分は兄との間に隔たりを感じているのだから、一緒に住むのは気まずいとは思う。しかし心のどこかで、兄の優しさに触れたいと思っているのも事実だった。夜行の面々に見せる優しさの十分の一、いや百分の一でいいから、優しさが、欲しかった。
俺は俯いたまま歩いていた所為で、前を歩いていた兄が止まったことに気付かなかった。そのまま兄の背中にぶつかる。
「良守?」
振り返った兄の手が俺の頬に触れた。驚いて顔をあげると、訝しげに眉を寄せた心配そうな瞳にぶつかる。(しかしその瞳にも色は感じられなかった。)
「ホントに成長しないなぁ」
「うる、さ…、」
自分でも驚くことに、涙が出そうだと思っていただけでなく、現実に涙が頬を流れていた。慌てて止めようとしても止まるものではなく。兄の手を振り払い、顔を背けて手で拭った。不意に飛び込んだ赤。あぁそうだ。俺の手には、 兄を殺す、傷跡がある。
それから後、どうやって家に帰ったかは覚えていない。気付けば夜で、仕事にもちゃんと行った。
後で斑尾に聴いた話では、兄も烏森に来ていたらしい。そしてその足で、夜行へと帰っていったという。やっぱり、向こうが兄の帰る場所なんだなぁと思いながら、俺は帰路に着いた。
(07/02/10)