世界ではなくただ小さな貴方のために

「ダグ、ドウシて…っ?ドウシて呼ンダりシタの…!?」

もう、この世界なんていらないんだ。

神はやはりいなかったのだ。



ダグの心は躍っていた。小さな手にしっかりと握り締められた白いリボン。喜んでくれるかなぁ、なんてはにかんだりして。小柄な彼よりずっと小さい、このリボンを受け取ってくれるであろう少女のことを思うとさらに笑みがこぼれた。
(今は無理でも、いつかきっと、)
10歳の少女にはあまりにも過酷なおいだちは、自分の小さな心をキリキリと締め付けるには十分だった。まだまだ親の愛情と離れたくない歳だと言うのに彼女はあんなにも気丈に振る舞う。無理矢理引き離された上、優しかった奥方の突然の死、仕える主人による暴力。それらは彼女をどれだけ苦しませたのだろう。
しかし幼い少女はそれを自分達には見せることも、すがることもしなかった。それは彼女が自分自身を奮い起たせると同時に、周りの大人に自分を対等に扱わせるための最後の抵抗だったのかもしれない。
そんな彼女を見ているのは辛くて、これ以上悲しませたくないと心から思った。あの夜森で出会った時の恐怖の表情を、ダグは生涯忘れることはできないだろう。それほどまでに痛々しい表情だったのだ。
これ以上悲しまないで、一人で泣いたりしないで。今まで恋愛事に疎かったダグにはもちろん初めての感情だったが、それが彼女を愛しているのだということはおおよそすぐに見当がついた。彼女を悲しませる全てのものから、彼女を守るのは自分の生まれながらの義務なのだと錯覚してしまうほどに、ダグはコレットを深く愛していた。
(何がなんでも、あの男からコレットを解放するんだ)
ダグは決意を改め、白いリボンをもう一度強く握り締めた。指が食い込むほど強く握ったせいで手のひらが赤くなっていた。出血してリボンに血の染みができては大変だと、慌てて握る力を弱める。幸い爪の痕が残る程度で済んだ。これでコレットに綺麗なまま渡せるだろう。

屋敷の前に着くとあの醜い執念を持った男のことが思い出され、ダグは怒りに頬を朱に染めた。しかしどうしようもないことに、あの男はコレットの主人なのだ。今回、彼女引き取りにきた自分としては、不本意だがあの男に頭を下げざるを得ない。
意を決して屋敷のチャイムを鳴らす。以前と同じようにコレットが出迎えてくれるものだと思っていたのだが、一向に彼女は現れない。忙しいのかと思い少し待ってみたが、現れないどころか物音一つしない。胸騒ぎがする。
さすがにおかしいと思い屋敷の門を飛び超え一直線に正面扉まで駆けた。近づいて行くにつれて胸騒ぎは激しさを増し、呼吸と動機は落ち着きをなくしていく。あと少し。ファインダーとしての冷静さを忘れたダグは、扉に辿り着いた途端、その大きなノブに手をかけ開け放った。白いリボンはいつの間にか指からこぼれ落ちていた。
扉を開けても以前と変わりのない玄関が広がっているばかりだった。確かに背筋の凍るような感覚が全身を駆け巡ったはずだ、なのに実際には何一つ変わったものなど見受けられない。
ただ一つ奇妙なことと言えばコレットだった。使用人として玄関まで出迎えるはずのコレットが未だ現れないのだ。そしてあの卑しい長男も現れない。二人が同時に消えることがあるだろうか。まずコレットは買い物以外に家を空けないのだし、あの男にしたってコレットが出かけるとならばむやみに家を空けることもしないだろう。では一体、なぜ。
それを不審に思いながらも、古びた屋敷の床を軋ませながらダグはコレットを探して歩いた。もしかしたらチャイムに気付かなかっただけかもしれない、もしかしたら眠っているのかもしれない。これから自分たちは幸せになるのだ、今までの人生はほんのプロローグにすぎない。本編はここから始まるのだ。温かい家で温かい家族に囲まれて、コレットの作るおいしいスープを飲んで、二人でおはようとおやすみのキスを交わす。そうだファインダーもやめてしまおう。二人で片時も離れずにぴったりと寄り添って、人生の終わりまでのんびり畑でも耕して暮らそう。
しかし幸せな未来の想像も、ダグの不安を拭い去ることはできなかった。
「うわ…っ」
転びそうになる体を慌てて支えた。現実はそうはいかない、甘い妄想は鮮やかに引き裂かれ、そのの罪深さを思い知った。ダグは何かにつまづいたようだった。柔らかい布に包まれた、冷たい、硬い、何か―――。
「…コ、」
呼吸の仕方を、忘れた。

「コレット」
妙に落ち着いた、一字ずつはっきりとしたクリアな声で発音してみた。「コレット、起きる時間だよ」しかしコレットは微動だにしない。当たり前だった、コレットは呼吸をしていないのだから。呼吸の仕方を忘れたのは、コレットの方だったのだから。
首を絞められた痕があった。ひどく憎しみの篭った強い力、その手の痕は明らかに大人の男を指していた。(あの、男が、)ダグはコレットを抱きかかえたままゆらりと立ち上がった。ダグの細腕でも軽々持ち上がるほど、コレットの体重は軽い。それはまるでコレットに天使の羽根が生えているようで、このままふわふわと天上へと連れていってしまうのではないかとさえ思えた。連れていかれないようにコレットの冷たくなった身体をより強く抱きしめる。骨が折れるほど、強く。もしかしたら本当に折れたかもしれないが、痛みで彼女が目を醒ますならそれでも良かったのだ。何本でも彼女の腕を折り、足をもいでやる。(それで彼女が目醒めるならなんだって!)

気がつくと、あの忌まわしい像―――払暁の女神像―――の前に来ていた。未だ血生臭さが消えず、こびりついてしまった錆のようだとダグは頭の片隅でぼんやりと思った。もうほとんど頭は働いていない。澄んだ空の色の双眸は、今や濁った湖底の色を湛えていた。
(コレット、)
心中で小さく、最愛の少女の名前を呟いた。彼女との幸せな思い出を探してみても、何も瞼の裏に蘇ることはない。それもそのはず、コレットとはまだ出会ったばかりだったのだから。出会ってすぐに彼女のことが頭から離れなくなり、次の日には彼女のことばかり考えるようになった。そしてあの夜、自分の思い過ごしでなければ想いは通じ合ったのだ。遠慮がちではあったが、確かに彼女の腕は自分を捉えていた。
その彼女が、憎くて醜いあの男に殺された。確証はない、だが自信はある。大方理由はあの男が執念深く求めていたダイヤモンドのことだろうと予想はできたが、そんなことはどうでも良かった。重要なのはコレットがこの世のどこにも生きていないこと、それだけだった。どうして彼女が殺されなければいけない、どうして彼女が死ななくてはいけない、どうして彼女ばかりがこんな―――!

(神よ、なぜこんな酷い仕打ちをなされた)
(神よ、貴方は何を望むのだ)
(神よ、神など本当は、)

神 な ど 本 当 は い な い 。

「…コ、レ、ト、 コレッ、ト、…コレット、」
狂ったように名前を呟く。何度も、何度も、壊れた歯車で不確かな韻を紡いでゆくように、錆び付いた杭でまばらに打ちつけるように、何度もその名前を呼んだ。それがどういうことかはわかっていたはずだ。だがそれすらもどうでもいいことに思えたのだ。神なんていない、ならば神の使徒なんて必要のない存在なのだから。

(ラビ、)
地響きが聞こえる。大地が拒絶しているのだ、彼女の帰還を、
(僕はもう君に会えないけれど、)
この世のものでない、彼女の魂を。
(僕を壊すのは、)
「ダグ…、ドウシて…!」
(君だろう)

(06/08/15)

title by Y(special thanks!)
小説2巻を読んでない方にはさっぱりわからないネタですみません。
とにかく泣いたのですよ、読んで。悲しくて、居た堪れなくて、本当に胸がつまる思いで読みました。ぜひぜひ読んでほしいお話です。ますますラビ様が好きになること間違いなし(笑)