おいてきた残像にもういちど囚われる
あの戦いから一年が過ぎた。今にして思えば矢のようだった日々だった気がする。それほどまでに慌ただしい日々だった。たくさんのかけがえのないものを失った。しかしその犠牲は同時に、残ったものに大きな力をもたらしてくれたのだろう。死んでいったものたちの意志が、誇りが、生き残ったものへの糧となり、戒めとなり、足を止めることなく前に進むことができたのだ。
気付けばここに来ていた。丘の上にこっそりと佇む日本風な造りの小屋。いかにも彼が好みそうな縁側が外からでも確認できる。
ここに来ることを、自分はずっと拒んでいた。彼がここにいることを知っていたのに、結局最期までここには来れなかった。何度も近くまで来たものの、彼に会うのが怖くて逃げてしまってばかりだったのだ。
久々の訪問者を、彼は相変わらずの仏頂面を隠しもせず無言で迎えてくれた。何の用だ、とは訊かない。ただ、無言のまま見つめられているようだった。
「久しぶりさ」
晴れやかな笑顔とはお世辞にも言えない、少し曇った表情になったと思う。しかしそれにも彼は何と言うわけでもなく、無言を貫いた。
ゆっくりと彼の前にしゃがみ込む。彼と目線を合わせるように。彼の瞳の中の自分を覗き込むように。どこにも彼の美しかった瞳なんてないのに。
「そっちはどうさ?綺麗なところなんだろ?」
どこが、とは言わない。言ってしまえば、彼がますます遠くなる気がしたからだ。
もちろん、返事はない。しようにもできないのだ。目の前にあるのは漆黒の塊だけなのだから。それは彼そのもののようで、彼とは全く違う、比べ物にならないものだった。
彼の最期は実にあっけないものだったらしい。必死に戦い抜いて、ボロボロになった彼は一人であそこから忽然と姿を消した。自分の残り時間をわかっていたのだろうと今にして思う。誰よりも弱味を見せることを嫌った彼だったから、きっと自分が弱くなっていくところなど見せたくなかったのだろう。それから彼が教団の門をくぐることは二度となく、彼に会うことも二度となかった。
「花も持って来ないなんて、最低だよな」
言って自嘲気味に笑う。死んだものの墓を訪ねながら花すら持って来ないとは、我ながら良い度胸だ。
見渡せば周りには綺麗に咲いたたんぽぽが一輪あるだけだった。彼とは似ても似つかない見かけのたんぽぽ。だがその決してここを動かないという健気さと意志の強さは彼そのものだと思った。そのたんぽぽの強い意志を、優しく手折る。
「ごめんなユウ、これで我慢してくれよ」
ほら、お前にそっくりなそいつでさ。
先ほど手折ったばかりで未だ元気なままのたんぽぽを目の前の墓石の上に置く。この花も、根から栄養が行き届かないためいつか枯れてしまうんだろう。ゆっくりと蝕まれていくその様は、戦争中の彼を思い出す。なんだそっくりじゃないか、彼も、この花も。
軽くため息を吐きながら彼の前から腰を上げる。上から見下ろすと、彼が眠っているはずの石はどうにもちっぽけだった。ただの黒い塊を彼というにはあまりにも惨めだ、自分も彼も。こんな石が彼の何を語るのだろう。彼の何を教えてくれるだろう。彼はどこにもいないのに。
脆弱な世界の中で、確かに彼がいた瞬間は存在したのだ。世界が彼を残して過ぎてしまっただけであって。彼と自分が同時に存在したという証はないが、そんなもの自分がわかっていれば十分な事実。そして彼もわかっている真実。
もう一度しゃがみ込み、たんぽぽに手を伸ばしたその時、優しい風が頬を撫でた。ふわふわとした感触が辺りを包み込む。すると、その風に乗せられた彼への小さな献花は、丘をくだって見えなくなった。
彼はどうも、自分が捕まえようとすると逃げ出す性質らしい。またも彼は、自分の手をするりとかわし、誰にも縛られない自由へと飛び立ってしまった。きっとあの花も自分の終わりまでひたむきに生きるのだろう。
「あぁ、飛んでっちゃった」
もう二度と、触れられない。もう二度と、届かない。
(06/06/06)